お久しぶりです。えへ。なんと8ヶ月ぶりです。へへへ。ほんと、すんません!純文学を敷居低く楽しむためのブログなのに、更新する敷居が高くなり、わたしが寄り付かなくなってしまいました。反省してます。もっとちゃらちゃらやります。
というわけで、なぜ「嵐が丘」かというと、今読み終わってオタク的に語りたくなったからです。ちなみに、面白かったけど、一般の善良な読書人にはあんまりおすすめしません。
「嵐が丘」といえば、漫画「ガラスの仮面」でマヤが子役を演じ相手役にほれられるという、マヤが桜小路君以外にもてた有名な作品ですが(どうでもいいですか)、漫画では子供時代しか演じられず、あとははしょられてたので気になってた話なので読んでみたのでした。
しかし、この話すごいよ。誰一人、好感持てる人が出てこない。キャサリンはクレイジーだし、ヒースクリフは超人的に根に持ちすぎるし、ヒンドリーも性格悪いし、エドガーはひ弱だし。なんじゃこいつら!
しかし、もっとすごいのが、誰一人好感持てないのに面白かったということなのです。ほらあれ、「登場人物に好感持てなくて面白くなかった」って決まり文句でしょ。「主人公に感情移入できなくて面白くなかった」とかもさ、よく言うでしょ。でも、好感持てずに感情移入できないのに、読まされてしまった。読み終わって、しばし唖然とする。この胸のどきどき、興奮、面白かったと体が訴えてるのに、何が面白かったのかよく分からない。なんだこの小説…。
この小説、わざと読者に登場人物に感情移入させないようにできているんじゃないの。物語の語り手の女中のネリーからして、あやしい。この人、いい人そうだけども、自分が仕えてるキャサリンを手に負えないって悪口言ったり、極悪人のヒースクリフにも結構手を貸してるし、子供のついた嘘は全部告げ口するし、ネリーが動けば事態は混乱していく。いやはや、あなた一体誰の味方なの、っていうか、面白くなればそれでいいって口でしょうか。語り手が誰か一人に肩入れして語れば、読者もその人に感情移入する。でも、ネリーは立場を固定させない。誰も彼もを悪くも良くも言う。その妙。
そして、続々と、登場人物が死んでいくけれども、時は非情に淡々と流れ続ける。その歴史を見守るような目。この小説は、愛憎劇というよりむしろ、孤独な一族の盛栄と没落を描いたガルシア=マルケスの「百年の孤独」のようなものなんじゃないかと思った。
だから、ヒースクリフの激しい愛に感動しましたとか、たぶん、そういう話じゃない。嵐がごうごう荒れ狂い、去っていくように、避けられない運命に翻弄される人間の存在みたいなのものを書いた小説なのかもしれない。
…って、まとめたはいいけど、まだあらすじ喋ってなかったよ。田舎のお屋敷に、ヒンドリーとキャサリンという兄妹が暮らしていて、そこに父親が旅の途中で拾った孤児ヒースクリフを連れて帰る。ヒースクリフとキャサリンは仲良くなるけど、父が死ぬとヒンドリーはヒースクリフを召使扱いし、キャサリンは別の人と結婚してしまう。恨みを晴らすことだけを生きがいに、ヒースクリフは嵐が丘を出て、そして戻って来て、復讐劇が始まっていく。
次々起こる不幸の連鎖に、なんでこんなことになったやら…と居たたまれなくなる。キャサリンがヒースクリフと結婚すればよかったのか、ヒンドリーがもう少し優しくしてやればよかったのか、そもそもキャサリン父が孤児など拾ってこなければよかったのか。でも、一旦始まってしまった運命は止まらない。
人を不幸にしていく運命はまた、気まぐれでもある。ヒースクリフの悪意の果てに、物語のラストは、かつてのキャサリンとヒースクリフの関係を髣髴させる1組のカップルが登場する。
しかし、ねえ、ヒースクリフ、本当にネリーが語るとおりの嫌なやつだったんだろうか。そんなに嫌なやつだったら、ヒンドリーは後にどうして一緒に暮らせたんだろう。ヒンドリーの息子も怯えながらもどうしてヒースクリフを慕っていたのだろう。そして、最後のヒースクリフの復讐の計画に入っていなかったカップルの誕生は、もしかしたら、ヒースクリフが望んだことなんじゃないか。などなど要らぬ思いを馳せるのでありました。憎めないのよ、ヒースクリフって。いい男だからさ(妄想の中で)。
なまぬるい共感も身勝手な好感も必要ない。ただただ圧倒されて、ごうごうと揺さぶられる物語。
エミリー・ブロンテは30歳で亡くなったそうだ。29歳のときに発表された唯一の長編小説。この物語は彼女の生きている間には評価されることはなかった。
3月 7th, 2010 in
その他 |
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お待たせしました。久々すぎて、図書館から延滞図書請求のお知らせががんがん来ています。…買えよってね。何だかね、上中下の中だけ古本屋で手に入れてしまい、出来れば同じ訳者の同じくらいの版の上と下を手に入れたいんだけど、古本屋で見つからなくて…。という余談はさておき。
ドストエフスキーの「白痴」が恋愛話(=ビバリーヒルズ白書)で、「罪と罰」が犯人が先に分かるサスペンス(=古畑任三郎)なら、この「カラマーゾフの兄弟」は家族間のごたごたと駄目で迷惑な人間オンパレードと、かつ誰が犯人か分からないミステリーがダブルで楽しめます。言ってみれば、「渡る世間は鬼ばかり」と「火曜サスペンス劇場」の同時上映って感じでしょうか。ほらほら!とっつきやすくなりすぎてがっかりだ!
まず渡る世間系話から。この話の冒頭で、三男アリョーシャの師であるゾシマ長老のもとにこの一家が集合するんですよ。なんでだっけ。なんでか忘れたけれど、三者面談かよという具合に集合しちゃうんですよ。
ゾシマ長老は、もう前半で存在感ありすぎな偉い人格者なんだけども、その彼の前で、カラマーゾフの父ちゃんがぺらぺらぺらぺらしょうもないことを喋り続けるのが前半の見所です。もう、父ちゃん、恥ずかしいから長老の前でそんなこと言うの、やめてよ!!と身もだえします。その恥ずかしいっぷりが見事なのです。
神を信じていないクールで現実主義の次兄イワン、父が憎くて憎くてしょうがない長兄のドミートリー。はらはらしながらみんなを見守る末っ子(美少年)アリョーシャ。
会話だけで延々つづられるこの冒頭は、何か物事が起きたりストーリーが進むわけでもないのに、ものすごく面白いです。人間の浅ましさ、悲しさ、どうしようもなさがあらわになって。でも憎めないというか、もうどうしようもないよなあって感じで。
で、ゾシマ長老、ながーいながーい話をし始めます。いやもう、これ何の話だっけ?って途中で忘れるくらい長いです。それもまた、感動的だったりして。
もうストーリーとかいいじゃん、とか思い始めたときに、再び作者が登場。事件が起こるわけなんですよ。しかも事件の様子を作者が人から聞いたからよく分からないんだけど、と、しどろもどろにしか語ってくれないので、全容が見えない。ここからは、もう、ストーリーが気になって一気に読み進んでしまいました。
どう見ても絶対ドミートリーが犯人だろ、って思うんだけど、アリョーシャが違うよ!って信じてて、いやいや、お前、いくらなんでも純粋過ぎだろ、兄ちゃんが犯人としか考えられないじゃん…って呆れながら読んでいたのに、でも、実は…? いや、でもやっぱり…?
と、あまり言うとネタバレなんだけども。でもバレたからどうだっていうレベルじゃないので、大丈夫だとは思います。
小説の楽しみ方って人それぞれだと思う。でも、何だか最近周りの人を見ていると手っ取り早く結論を知りたいって人が多いような気がします。新書ブームとかもそうですよねえ。「○○が~できる方法!」とか題して、その答えを必死で探すんでしょ。すかすかの文字を追いながら。でもそういうのって、他のジャンルに任しておけばいいと思う。情報だけなら、ネットでも取り出せる。世界に入りこんで世界を自分の感覚で体験することは、小説にしかできない。小説は楽譜で、演奏するのは読者自身だって、誰かが言ってたなあ。回り道をして苦労して演奏し終わったとき、たぶんそれは自分の体験になっていて、ただ観客として聞いただけでは得られない何かを手にしているのだと思う。
これだけ回り道がたっぷりできる演奏しがいのある小説って初めてだった。腕組んで観客席で、さあ採点してやろうって聞くんじゃなくて、このカオスの中に飛び込んで、自分の体と頭でもがいて歩ききったとき、一つの経験を終えて、世界が少しだけ違って見えるのだと思う。
すべての文学に言えるのだけど、読むべき時期というものがあると思う。一度手に取って読めなかった、というのは、別に苦い思い出でも恥ずかしいことでもなくて、ただ時期じゃなかっただけなのだと思う。一度読めなかったから、もう読まないというのではなくて、頭の端に留めといて、ある日手に取ってみる、すると不思議に読める。何だか神秘的な物言いになるけれど、いつ出会うべきかは、物語の方が知っている気がする。
さて、わたしが読んだことのあるドストエフスキーは、ひとまず終了。また別の作品読んだらアップするとして、次は誰にしようかなあ。
あ、そうそう、読んだ当時の読書の記録は、こちら。
7月 4th, 2009 in
ドストエフスキー |
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さて、カラマーゾフの兄弟です。いやあ、この大物紹介するのは腰が重い重い。などと言ってたら読むほうはもっと腰が重くなると思うので、ちゃらちゃらいきます。本物の凄さは読めば分かるし、文学的な解説は専門家にお任せしましょう。
まず、どんな話かというと、大きなあらすじは、金と女にだらしなく卑屈な小悪党で駄目人間なカラマーゾフ=フョードル親父がいて(ほんっと駄目なんだ、この人)、財産を騙し取られ同じ女を愛してしまったせいで親父を殺したいほど恨んでる長男ドミートリーがいて、お前らがいるから「だから、カラマーゾフのやつらは…」って一緒に馬鹿にされるんだよ、という極度に冷めた次兄イワンがいて、そんな駄目な一家の中に育ったけれども家族を愛して止まない牧師志望の末っ子アリョーシャがいる、という話。
…という話って、あらすじになってないじゃん。でもさ、この人たち、紹介見てるだけで何かやらかしそうでしょ。
この作品は何だかちょっと変わった小説だと思う。奇をてらったというよりは、これ以上ないほど小説らしい小説で、そのせいで変わってる感じがしてしまう小説なのです(何のこっちゃ)。
登場人物がいて、順番に物事が進んで行って、観客は席に座ってきょろきょろしていれば無事エンディングまで辿り着ける、それが普通の小説だとしたら、「カラマーゾフの兄弟」は、何だかいろいろ勝手が違う。しょっぱなから話手である作者が登場して、いやまあくだらないとか怒らずに最後まで聞いてくれよ、最初はよく分からないかもしれないけどさあ、何てたって私もよく分からないんだからしょうがないじゃん、と無責任な言い訳を始める。えええー!ってブーイングしてる間に、まあ、本文がようやく始まって、よかったよかったって安心するんだけども、でもやっぱり舞台に出てきたのは作者一人で、まずはこれだけ知っておかないと面白くないからね、とばかりに登場人物の生い立ちのレクチャーが始まる。
引っ込めー、早く役者を出せーとばかりに本を閉じるんじゃなくて、変なことを始めるんだなあとにやにや楽しめれば、導入部分はクリアでしょうか。
さて、書き手として眺めてみると、この説明の手際のよさがかなりすごい。短い文章に膨大な情報をぎゅっと詰め込んで、鮮やかにプレゼンしてみせる。しかも説明臭くならない。なんだこの文章力!(訳者もすごい!)
小説を書くとき、登場人物の生い立ちや親のことや趣味のことなどを考えるわけですけれども。彼が何歳でどんな育ち方をしてきて何を大事にしているか、ということで物語やセリフは左右されてしまうからね。で、ドストエフスキーと比べてもしょうがないけれど、わたしは登場人物に物語に最低限な必要な背景しか作ってやることしかできないのに、ドストエフスキーの登場人物たちは生身の人間以上の背景を背負っている。鮮やかな人物紹介や、延々と続く長セリフを見ていると、膨大な背景を持っていて、作者はただ、その一部をちょっとかいつまんで紹介しているだけだ、というように思えて恐ろしいことだなあと感じます。
この小説が変わっているもう一つのポイントは、一つの物語に十個くらいの小説が詰まっていることだと思う。本筋に関係あるようなないようなエピソードが、長編小説一本書けるくらいの濃厚さで展開される。本筋は上で紹介したとおりなのだけど、この劇中劇ならぬ、小説中小説が3巻に渡る大長編を構成しているわけなのです。
これもね、話が逸れたから分からなくなったと諦めるんじゃなくて、いやあ、小説の中で小説読めるなんて得したなあと回り道を楽しむのがコツじゃないかと。
あれだ、マンガで言えばこれです。
この漫画のあらすじって言ったら、マヤがライバルと戦いながら女優の憧れ紅天女を演じるのを目指す話ですけど。報われない恋とかあるけど。でもそれだけじゃ、わたしはファンにならなかったわけで(全巻持ってます。月影先生がわたしの心の師匠です。)、マンガの中で劇を一本まるまる上演してしまうという大胆な構成がカッコイイと思うんですよねー。
というわけで、「カラマーゾフの兄弟」のすごさであり面白さって、この登場人物と物語の濃厚さだなあと思います。
濃厚さに敬意を払って、三兄弟レビューは次回に続きますよ。
6月 16th, 2009 in
ドストエフスキー |
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ドストエフスキーづくし、次はメインディッシュのカラマーゾフの兄弟…と言いたいとこですが、まあね、ボリュームもあってごっついので、とりあえず、お口直しで「白夜」でも。
わたしが最初に読んだドストエフスキーは、この白夜でした。理由は、本が薄かったからです。
ドストエフスキーの敷居が高い理由の一つが、長いことだったので、とりあえずこれは短いです。文庫本で厚さ1.5センチくらいだった気がします。
敷居が高い理由の二つ目は、表紙の顔が恐いことですが、まあこの白夜は他と違って女の人の顔ですし。でもこれはこれで、何だか恐いんですけど…呪われそうで。
表紙が恐いから取っ付きにくいとか言ってるのは、わたしだけじゃないようで。そういや、ここ最近名作が次々取っ付きやすい表紙になって発行されてますよね。
…とっつき…にくくなってない…?
あ、わたし、ジョジョ大好きです。荒木先生+伊豆の踊り子…!と、わくわくしながらこの絵を最初に見たときは、衝撃過ぎて5分くらい硬直しました。が、改めて今見るとこれいいじゃないですか。何だかよく分からないけど、わくわくするじゃないですか。ところで、おっぱい、出てるよね、どんな服なんだろ…いや、荒木先生なら有り。
ドストエフスキー小説の敷居が高い三つ目の理由は登場人物が多いことですが、この話は少ない。大体3人です。で、「白夜」がどんな話かというと、恋人からの便りがなくて悲しんでる少女を、少女に恋する青年がなぐさめようと奮闘する話なのですよ。青年は少女好きなのに、いや好きだからこそ、悲しみを和らげてあげたくて、少女と少女の恋人の仲を取り持つ役割を引き受けるのでした。で、青年苦悩。童貞空想ロマンチストな苦悩っぷりが何ページにも渡って延々書き綴られる話です。
…そんな青年うざいとか言っちゃダメですよ。こんな話でもドストエフスキーの腕にかかれば、白夜の美しく神秘的なセンチメタリズムになっちゃうのです。
ちなみに出だしはこんな感じです。
第一夜
すばらしい夜であった。それは、愛する読者諸君よ、まさにわれらが青春の日にのみありうるような夜であった。いちめんに星をちりばめた、明るい星空は、それを振り仰ぐと思わず自分の胸にこんな疑問を投げかけずにはいられないほどだった--こんな美しい空の下に、さまざまな怒りっぽい人や、気まぐれな人間がはたして住んでいられるものだろうか? これもやはり、愛する読者諸君よ、幼稚な、きわめて幼稚な疑問である。しかし私は神が諸君の胸にこうした疑問をよりしばしば喚起することを希望する!
…何言うとるんじゃ、お前は…!ああ、ダメだ。やっぱりうざいかも。非常にとっつきにくい。でも、それを乗りこえて、読み終わったとき、他のドストエフスキーの小説も読んでみよう!なんて、新たな世界が広がってるかも。短いし、頑張って!面白かったよ!
でも真骨頂は長編ですよ。次回は、カラマーゾフ兄弟について喋ります。
読んだ当時の読書の記録は、こちら。
6月 7th, 2009 in
ドストエフスキー |
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引き続き、ドストエフスキーです。何だかこんなふうに連続で記事にすると、ドストエフスキー流行ってるっぽいでしょ。
…と、ウェブ界の片隅で呟いてみる。流行ればいいのに!
わたしにとって「罪と罰」は椎名林檎でした。しかし、それじゃ作家のたまごの名が廃るっていうわけで、読まねば読まねば…とプレッシャーになってた一冊でした。なかなか読めなかった。だって表紙の顔が恐いし…。タイトル重いし。
だけど読み始めたら止まらない。「白痴」が恋愛ドラマなら「罪と罰」はサスペンスでしょうか。主人公のラスコーリニコフが老婆を殺して、罪の呵責に悩み、警察に追い詰められていく話なのです。冒頭で犯人が分かるパターン。まあ、古畑任三郎みたいな感じですね!(見てないけど)
真面目な苦学生のラスコーリニコフが、金貸しの欲張り老婆の殺人を行うことから物語は始まる。彼自身の打ち立てた理論によるとその殺人は正義である。でも、やっぱり彼は罪悪感に囚われる。
殺人の計画を思いつき、それを実行するまでに悩みぬき、実行したあとも情緒不安定になり悩み迷いぬくその過程が、熱い筆で延々と語られる。
ドストエフスキーのすごさはセリフにあるとわたしは思うのです。場の空気をささっと彩るくらいのセリフなら、ちょっとセンスがある人ならできるけれど、登場人物の魂の声を書くのは本当に至難の業。なぜなら、登場人物のことを深く理解し、喋っていることの何倍もの背景を作者が持っていなかったら、喋れないから。主人公だけじゃなく、誰も彼もが長々と喋り続けるドストエフスキーの小説は、もう神だと思う。
ラスコーリニコフの鬼気迫る独白は読者を当事者の位置まで引き摺り下ろす。まるで自分が彼自身の理論にしたがって殺人を犯したかのような気持ちになってしまう。彼を調べる刑事たち、彼の誠実な友人、彼を愛する妹と母、その他不幸な運命を背負った貧乏な人々。これらの登場人物が、本当に生き生きと描かれている。彼らの数ページに渡る独白セリフは、どの単語だって聞き逃したくないくらいだ。
などと考えたのは、もちろんわたしだけじゃないらしい。有名な映画監督ヒッチコックさん(すんません、よく知りません)が、このセリフを一言も削れないから映画化はできないと言ったらしいです。それを聞いた当時26才のアキ・カウリスマキが、じゃあ俺がやってやるとばかりに初監督で映画化したのでした。京都会館でその映画を見る機会がありました。実を言うと、わたしはアキ・カウリスマキが大好きなのですよ。いやあ、あのセリフの少ないカウリスマキ映画で、どうやって映画化したんだろうと、わくわくして行ってみたら、
…青年ラスコーリニコフが禿げている…!!!
わたしのラスコーリニコフ様が…!!冒頭からショック死しそうでした。しかし、ざっくり新解釈で、でもちゃんと「罪と罰」のエッセンスはそのままで、お見事でした。
比較的、登場人物のクレイジー度が少ない気がするので、ドストエフスキー初心者はこの「罪と罰」から入ってもいいかもしれないですね。
読んだ当時の読書の記録はこちら。
6月 1st, 2009 in
ドストエフスキー |
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第一回目の記事はドストエフスキーの「白痴」です。ええ、いきなりとっつきにくいですが、気にせず進みます。
ドストエフスキー、面白いですよ。名前恐いけど。この人の小説はとにかくパワフルでストーリーが面白くて次々読ませられちゃう。なんだかもうこれぞ小説っていう、小説の要素の全てを一つの作品に詰め込んじゃう、何とも恐ろしい方でございます。頭の中どうなってるんだろう。きっと、登場人物が何人もいっぺんに、わーわー喋り続けてるに違いない。
世間では村上春樹の新刊が出て大騒ぎみたいですが、その彼が一番面白い小説として名前をあげたのが、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」でした。なので、大騒ぎついでに、何ならドストエフスキーも読もうよ特集です。まあ、カラマーゾフはごっついのでメインディッシュに取っておくとして、Cafe的には「白痴」が一押しということで。
だって、これ、恋愛話なんですの。しかも、全員いっちゃってます。三角関係なんのそのです。
誠実で頭もよく思いやりもある立派な青年である主人公ムイシュキン公爵は、世間の常識からかけ離れた純朴さを持ち、かつて病気で精神の朦朧とした状態になっていたことから、「白痴」として扱われる。しかし、その純粋さと立派な態度が、周囲の人を魅了していく。
彼に惚れるアグラーヤ。わがままでプライドが高く、度が過ぎるほどの恥ずかしがり屋で激しい気性。彼女は「白痴」の青年を愛していることを自分で認めたがらず、ちぐはぐな行動を取り周囲を振り回す。
不幸な身の上のせいで自分を汚れていると信じ、主人公を愛しているのに自分と一緒になると相手が不幸になると考え、主人公を捨てるが、制御できない感情に翻弄される絶世の美女ナスターシャ。
自分を愛していないと知りつつもナスターシャのためなら何をすることも恐れず一心にナスターシャを愛し続ける粗暴なロゴージン。
アグラーヤに惹かれながらも、自分の身を不幸の底に落とそう落とそうとしてしまうナスターシャを放っておくことができないムイシュキン。
こんな彼らが、わーわー叫んでるとても騒々しい小説です。でもこれ、すっごく文学なんですよねえ。魂のぶつかり合いって感じで。騒々しさが胸を打つのです。
白痴ってタイトルあんまりなんですけども。要はビバリーヒルズの凄い版です。たぶん。ビバリーヒルズ見てないけど。こんなこと言ってロシア文学研究者とかに怒られるかしら。でも文学って敷居の高いものじゃないんですよねえ。Cafe読みもいいじゃないですか。とりあえず、ドストエフスキーの書く人物は、萌えるんですよねえ。女子はムスターシャ派とロゴージン派に、男子はアグラーヤ派とナスターシャ派に分かれて萌えてください。
読んだ当時の読書の記録はこちら
5月 30th, 2009 in
ドストエフスキー |
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作家のたまごのぱそ子こと、寒竹泉美です。
日記だけじゃ喋り足りないので、読書ブログ始めることにしました。
海外文学が好みです。日本のものは芥川賞や直木賞系、どうやら純文学と呼ばれるジャンルのようなので、ブログにも純文学と銘打ってみました。純文学って何だよって聞かないでくださいね。いずれ分かるやもしれません。分からないかもしれません。
埋もれた名作、いっぱい紹介したいです。
Wordpress初導入で、四苦八苦しながらレイアウトを完成させたところで力尽きました。また気が向いたら更新しますのでRSS登録などしていただけると嬉しいです。
こ、こんなものかしら。ではでは、また。
5月 29th, 2009 in
雑記 |
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