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初出誌:「京の発言」第14号


第4回 京都の桜 /「細雪」谷崎潤一郎




 「細雪」を読むのは二回目で、以前は関西に住んでいなかったからぴんとこなかった地名も、今読み返してみると、訪れたことがある場所が次々出てくるし、やわらかな関西弁は耳に馴染んで、イントネーションも思い浮かぶから、文字から声が聞こえてくる。

 谷崎がこの作品を書き始めたのは、一九四二年だそうで、その頃から、もう六十七年も経っているのに、時を越えて、わたしの知っている現在の土地に、姉妹たちが現れてどたばたやっているような気持になった。

 「細雪」は、三十四歳独身で当時としてはかなり行き遅れている三女、雪子の結婚相手を探して、次女の幸子が奮闘する話だ。何だそれ、と思うかもしれないけれど、そうとしか説明できない。特に何が書かれているというわけでもない。面白かったという印象はあるけれど、どんな話か、と訊かれたら悩んでしまう。

 だけど、意識的にエピソードを拾いながら読み返してみたら、案外この話は、事件に満ちていた。

 作品の中では五年の歳月が流れていて、その間に登場人物それぞれにドラマティックな出来事が起こっている。長年住んでいた愛着のある大阪を引き上げて東京に移ってしまう長女。次女、幸子の流産。阪神大水害で末っ子の妙子は命からがら板倉に助けられ、板倉と身分違いの恋をし、のちに板倉は中耳炎をこじらせて苦しんだ末に死んでしまう。また、そのあと妙子は大腸カタルにかかって死にかけるし、元気になったら、今度はまたしても身分違いの相手と子供を作ってしまうが、その子供は死産に終わる。その間に三女の雪子は五回見合いをしている。また、彼らの家の隣にはドイツ人の一家が住んでいるし、ロシア人の家族と知り合いになったりもする。

 何も起こらなかったどころではない。次はどうなるのだろうとはらはらして、退屈する暇がまったくない。なのに、読み終わってしばらくすると、特に何も変わったことは起こっていないという印象になってしまう。不思議な小説だと思う。 五年という歳月。自分の場合はどうだっただろうか。結婚もしたし、研究もしていたし、進路に悩んだし、大学院を修了した。一人の友人が自殺をし、別の友人は病気で亡くなった。二人の祖父も亡くなった。でも、五年間で何か変わったことがあったかと尋ねられると、別になかった、と答えてしまいそうになる。「細雪」と同じだ。

 五年間、何もなかったわけではない、と改めて気がついたのは、引越しのために、片づけをしているときだった。 今月、ようやく条件にあった貸家が見つかって、五年住んだ家を引っ越すことになった。それで、ずっと手付かずだった押入れや本棚やクローゼットの中を整理することになった。 旅行に行ったときの思い出のパンフレットや、人からもらった手紙、写真、書類が、ぞろぞろ出てくる。見返せばなつかしいけれども、膨大な思い出に囲まれて、こんなこともあったか、あんなこともあったか、と記憶をたぐっているうちに、途方に暮れて、ぐったりしてしまい、貴重な時間がどんどん過ぎていく。

 思い出の痕跡たちは、口々にわたしに訴えかけてくる。個々の雑多な過去たちは、恥に塗れていて、うっとおしく、同時に、なつかしく、いとおしいような気もして、いろんな思いが溢れてしまい、いいものなのか悪いものなのかも分類できない。手に負えない。思い出に絡みつかれて、足を引っ張られているような思いがする。こんなもの全部捨ててしまえればいいのに。でも、捨てたら予想もできないような恐ろしいことが起こるような気がして、しかも予想がつかないものだから対策のしようがなくて、ますますどうすればいいのか分からない。片付かない。

 普段は忘れていたけれど、こんなふうに思い出してみれば、毎日の一瞬一瞬は、悩んだり感動したりして、とてつもなく大きな出来事だった。なのに、日々をこなしていくうちに、それらは、だんだん、何でもない出来事に変わっていった。日常が、わたしをごうごうと押し流していく。尖った鋭い出来事も日常に洗われているうちに、角が取れ、丸く小さくなっていく。

 日常とは何だろう。

 日常とは、しなくちゃいけないことをこなし続ける日々のことだろうか。だから、普段は思い出を抱えていると身動きが取りづらくなるから、脇に置く。そのうちに、日常は思い出を押し流し、角を丸くし、小さく滑らかにしてしまうのだ。 五年間、特に何もなかったと答えるリアルさが、「細雪」の中にはある。多くの小説は、時の流れに抗って踏みとどまり、なんでもない日常から何でもなくない何かを書き出そうとしているのに、この小説は、日常という大きなもの、そのものを書いている。

 と、同時に、何もなかったわけじゃないと、時の流れに抵抗する主人公たちの様子も描かれている。(つづく)



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