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初出誌:「京の発言」第12号


第2回 盆栽の美しさ /「古都」川端康成


 川端康成の長編小説「古都」には、京都の美しい四季や祭りの様子、京都弁で話す人々の暮らしが、観光ガイドのように並べられ、描写されている。そして、そんな京都を舞台に、生き別れの双子の姉妹が偶然出会うというドラマティックなストーリーが繰り広げられる。だけど、わたしが、この小説を読んでいて特に魅力を感じたのは、京都の描写でも双子の運命でもなく、登場人物が漏らす京都や自然についての個人的な感想だった。

 たとえば、主人公の千重子と千恵子の育ての父親は、二人で楠を見上げながら、こんな会話をする。

「なあ、千重子、楠て、お父さんも、よう知らんけど、暖かい土地、南国の木やないのやろか。熱海とか、九州とかでは、そら、さかんなもんや。ここのは老木やけど、大きい盆栽みたいな感じせえへんか。」
「それが、京都やおへんの? 山でも、川でも、人でも……。」と、千重子は言った。


 大きい盆栽……。なるほど、京都の美しさは、自然を人の手で丁寧に成型した美しさなのかもしれない。放っておくだけでは決して育たない努力の美。わたしが今まで京都に漠然と感じていた違和感を、川端に説明してもらった気がした。

 また、呉服屋の娘として育った千恵子は、初めて間近で見る北山杉の美しさに感動するが、北山杉の村で育ち、林業を生業とする家で働いている苗子は、こんなことを言うのだった。

「人間のつくった杉どすもの。」と、苗子は言った。
「ええ?」
「(中略)うちは、原生林の方が好きどす。この村は、まあ、切り花をつくってるようなもんどっしゃろ……。」


 切り花、そして盆栽。物語を読んでいると、それらは川端の批判心から生まれたセリフじゃないことが分かる。植物を丹精こめて育てあげ、矯正し、演出によって作りだした不自然な自然。そこには、原生林にはない、人間の切実さと傲慢さが同時に宿っているような気がした。

 これらの表現がなかったら、わたしは、北山杉を見に行こうなんて物好きな気持を起こさなかったかもしれない。


 よく晴れた冬の日、わたしは京都駅まで出て行って、バスに乗った。金閣寺を越え、立命館大学を過ぎると、景色が一変する。バスは、山が迫っている曲がりくねった道を、ゆっくりと走っていく。窓からは源流に近い水が岩の間を流れているのが見える。山肌に整然と並んでる木々は、剣先のように尖って見えた。 窓の外には、千恵子がバスに乗ってこの村を訪ねたときの文章と同じ景色が広がっていた。

 清滝川の岸に、急な山が迫って来る。やがて美しい杉林がながめられる。じつに真直ぐにそろって立った杉で、人の心こめた手入れが、一目でわかる。銘木の北山丸太は、この村でしか出来ない。

 今まで晴れていた空はどんよりと曇り始め、粉雪が舞っているなと思っていたら、いつのまにか大吹雪になってしまった。 

 北山グリーンガーデンという停留所でバスを降りた。全くひとけがなかった。雪と川と山しか見えなかった。



 間近に迫るたくさんの杉を目の前にして、わたしは、小説の一節を思い出す。

じつに真直ぐな幹の木末に、少し円く残した杉葉を、千重子は、「冬の花」と思うと、ほんとうに冬の花である。
(中略)
「冬の方が、きれいやないの。」と、千重子は言った。
「そうどすやろか。いつも見なれていて、わからしまへんけど、やっぱり冬は、杉の葉が、ちょっと、薄いすすき色になんのとちがいますか。」
「それが、花みたいや。」
「花。花どすか。」と、苗子は思いがけないように、杉山を見上げた。


 しかし、実際に見た冬の花は、圧倒されるほどに美しいけれど、同時に、何だか気持悪くもあった。「木」と呼ぶにはあまりにも不自然に真っ直ぐで細すぎる幹のせいかもしれなかった。この真っ直ぐさ、細さ、傷一つない美しさを成し遂げるのに、どれだけ人の手と苦労が費やされていることだろうか。そして、この木は、どれだけの不自然さを強いられてきたことだろうか。

 雪は、さらに強くなってくる。歩き回っているうちに靴に水がしみこみ、体も芯から冷えてしまった。一軒だけ目に付いた店が、かろうじて開いていたので中に入る。土産物屋兼、喫茶店兼、資料館受付の何でも屋。暖房の効いた店内で一息つくと、わたしはぜんざいを注文した。

 中にいたのは、店主の女性と地元の人らしき初老のおじさんだけだった。

 二人は退屈していたのか、気さくに話してくれる。父親が川端康成と懇意で、若い頃はよく鎌倉の家までものを届けに行っていたと、おじさんが何でもないように言うので、わたしは驚いた。
「本物の川端康成と話したことがあるんですか」
「そりゃ、あるさ」
 かかかと笑う彼は、豪快でさっぱりとしていて暖かい。


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