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初出誌:「京の発言」第11号


第1回 見すぼらしくて美しいもの /「檸檬」梶井基次郎


 京都の町には艶やかで美しい影が潜んでいると、わたしは思う。その影は、完璧な闇というよりは、流れに洗われてぬらぬらと光る川の石のような、どこか愛嬌のある黒をしている。

 古い黒ずんだ木造の家には必ず影がある。庇の裏。柱の側面。窓枠の下。少し裏に回って家と家の狭い隙間を覗き見れば、そこにも必ず影がある。見つけ出すと、何だかほっとする。

 この町で長年生活を営み年を重ねた人たちの中にも、古い家並みと同じように美しい影を見つけることが出来る。皺の間、丸められた背に守られた腹、親しいものに挨拶するために開かれた口の中に、それはある。

 影は、ひんやりと冷たくて滑らかで、何も主張しない。そこにあることに心から満足しているように見える。気づかなければまるでないのと同じようにひっそりとしているし、気づいて視線を注げば、その視線を優しく吸い取ってしんとしている。

 影が出来るためには光がいる。田舎でも都会でもない特別な町がつくる光は、美しく生ぬるい光、色で言えば、淡く濁ったセピア色。たとえばその光は、日本中の人々の憧れだったり、由緒ある文化や歴史だったり、数々の偉人たちの残した物語の痕跡だったりする。

 自然と真正面から対峙しなければならない山里では、京都のような艶やかな影は出来ない。そこでは、直射日光のような強い光が荒涼とした色濃い影をつくっている。一方で、大都会のビルディング街にある光は蛍光白の清潔な光で、隅々まで照らし出し、影そのものを注意深く拭い去ってしまうだろう。拭う必要性がないと判断され打ち捨てられた場所には、わたしが気楽に踏み込めないほどの、深い闇があるだろう。

 だけど、京都の影はわたしに優しい。わたしは無意識のうちに影を探しながら町を歩いている。



 わたしが京都に住み始めて四年目に、梶井基次郎の小説「檸檬」の舞台になった丸善が閉店した。二〇〇五年のことだった。跡地に何が出来るかと待っていたら、やたら内装の豪華なカラオケ屋が現れた。小説好きとしては、とても寂しかったけれど、一人の小説家が檸檬を置き逃げしたくらいでは、閉店を免れることはできないのだと妙に現実的な気分にもなった。一方で、梶井が檸檬を買い求めた八百屋が寺町二条の角で未だに営業を続けているのは有名な話だ。その店に行けば「梶井基次郎の檸檬の店」と書かれた看板とレモンがガラス張りの店内に展示されているものだから、読んだことのない人も、梶井基次郎の小説に檸檬が出てきて、ここが舞台になったと分かるようになっている。もっとひっそりと、知る人ぞ知るという感じに佇んでいるのかと思っていたわたしは、最初見たときに心底がっかりした。でも、丸善も八百屋も商売のための建物なのだ。後の人の感傷のためだけに、いつまでも同じ姿を留めておけと要求するのはおかしいし、梶井の歩いた寺町が広々と舗装され清潔になり、現代的に変わってしまったことだって、何だか至極まっとうな人間の営みの結果に思えて、人ってたくましいなあ、変化していくのだなあ、と妙に納得したりもする。

 だけど、変わらないものもある。「檸檬」の書き出しの一文は、いつだってわたしをぎょっとさせる。


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