カサカサ、カサカサ




 黒いガラス。本日休業の古ぼけたブティック。ショーウインドウ。
 前髪を右に流し、そして前で揃えてみてやっぱり左に流す。浮き上がったパーマを抑え、耳に掛けて横髪をなでつけ、でも戻す。
 どうあがいても、最悪。ガラスに映ったわたしの髪は、テレビのコントに出てくるおばさんのかつらみたい。
 かといって、そこにいつまでも立ち止まっているわけにはいかない。お腹もすいた。もう二時なのだ。やり直しを二回された。コーヒーは二杯飲んだ。二時までかかって、この髪型。
「パーマとカットで一万三千円になります」
「表に、初回の方三十%オフって書いてありましたけど?」
「それは、こちらのメニューのみになっております」

リフレッシュスーパーヘアートリートメント(当店開発)

 自転車をこぐ。太陽が降り注ぐ、冬の昼下がり。土曜日。わたしは片手で頭を抑えながら、せかせかと人込みをかき分けて進む。見えるのは地面ばかり。

 カサカサ、カサ。


 ランチの時間は過ぎていた。
「すいません、もうオーダーストップなんです」
 当てにしていたパスタのランチに間に合わなかった。こんな半端な時間に開いている店は、マックかミスドか、ガストか、ケンタ。
「お飲み物は何になさいますか」
「じゃあ、コーヒー」
 騒々しいケンタッキーの二階で、油に塗れたチキンを食べる。ポテトは冷めて、もそもそと口の中を占拠する。
 酸っぱいコーヒーでポテトとチキンを流し込む。
 店の中は女子高生の笑い声で、膨れ上がる。わたしは頭を押さえて縮こまる。

 カサカサ、カサカサ。



 まずいケーキを売るのは犯罪。絶対犯罪。まずいケーキを売るケーキ屋は犯罪者。
「お先にお飲み物を。ケーキはあちらのケースからお選びください」
「じゃあ、コーヒー」
 犯罪のかけらも匂わせない立派な店構え。流れている音楽はヨハン・シュトラウス。
 キラキラと光るショーケースの中から選んできたお薦めの一品。
 ナポレオン・パイ。
 上下のパイ生地はともかく、中のカスタードクリームは醜悪に黄色い。安いクリームパンの中身のような味がする。フォークで突き刺そうとすると、バランスを崩してぐしゃりと倒れた。パイは固く、カスタードは自分勝手に主役ぶる。一応、苺もいるのだが、彼女は自分がケーキの一員であること に、何の興味もないみたい。
 まずいケーキ。
 ナポレオンもシュトラウスも大嫌い。
 世の中に、こんなに手軽に不幸になれることがあるなんて知らなかった。
 ケーキを残した。

 カサカサ、カサ。カサカサカサカサ。



 自転車はコンビニの前に止めた。人込みの中では邪魔だから。
 歩くと耳の奥から、不思議な乾いた音がする。
 何だろう。何の音だろう。耳の奥に耳をすますのも変だけど、わたしはその音だけに集中しながら歩いていた。だから、声を掛けられたのに気づかなかった。

 カサカサ、カサカサ。



「だから剃れば剃るほど毛はどんどん濃くなっていくのよ。ね、今少しがんばってここに通ってもらうだけで、もう剃ることもないし、お肌が痛むこともないでしょう。今は若いから関係ないなんて思っているかもしれないけれど、年をとってから後悔しても取り返しがつかないわよ。」
 メイクの練習させてくださーい、と惚けたお姉さんに捕まって、連れていかれたところはエステサロン。眉毛をお義理程度に切られて、お礼にエステ無料体験ができますけどどれがいいですか、と言われて、じゃあ美顔コースって言ったのに、いつの間にか脱毛に決定。
「一ヵ月に二、三回通ってもらえば、一年くらいたった頃には、生えてくるのはほとんど目立たない薄い毛になって、もう剃らなくてもよくなるの」
 着替えてください、とタオルを渡されて、裸同然の恰好でベッドに横たわって、右から左からびりびりと腕の毛を剥がされた。
「わきが二十万、手が七万で、足は十五万。でもね、学生さんはお金がないでしょう。たとえば、わきなら、月六千円ずつのローンがあってね」
 誘拐、詐欺、身ぐるみ剥がされて拷問、恐喝。
「少々お待ちください。カウンセラーの人が来ますんで。コーヒー飲みます?」
 そして本日五杯目のコーヒー。



 周りには、同じようにベッドに横たわって文句も言わずに拷問を受けているたくさんの女の子たち。こんなところで人知れずがんばっているなんて何だか切ない。一回腕の毛を剥がすだけで五千円。有料の拷問。プロの女王様だってこんなに高いプレイはしないだろうに。
「今は冬だからいいけれど、夏になったら、剃るでしょう?でも剃れば剃るほど、毛はどんどん濃くなるの。今に、腕から陰毛くらいの太さの毛が生えてくるわよ」
 そして、予想どおりのエステの勧誘。どうせ暇だから、話の種にとつきあっているのだけれど、これはあんまり。腕から陰毛。足から陰毛。
 メイクの練習はどうなったのだろう。最初に声を掛けてきた子はいつの間にか姿が見えない。わたしの前には、きっちりと化粧をしたスーツの女の人が、延々と喋りつづけている。わたしは裸同然。髪にはビニールの袋みたいなものを巻かれ、びりびりと毛を剥がされた腕は、真っ赤に腫れて痛痒い。
「このまま剃らずに夏も乗り切るっていうんなら、別にいいんだけど、」
「じゃあ、わたし。夏もこのまま、わきも足も腕も毛生やして過ごしますんで」

「お疲れさまでした」
 着替え終わって、エステティシャン全員に見送られる。

 カサカサ、カサカサ。カサカサ、カサカサ。



 すっかり日が暮れている。ネオンが眩しい。沢山の人の群れが、寄せ集まったり離れたりして動いている。ショーウインドウはますますわたしの不格好な頭を映し出す。もっと早く帰ればよかった。
 カサカサという音はますます大きくなる。早足で歩くとそれにつれて、カサカサカサカサと音も早まる。
 お腹は空いた気もしたが、さっきケーキのせいで胸焼けがしている。食欲がない。お金もない。
 着飾った女の子たち。カップル。ビラ配りのタキシード。
 銀行のATMは、もう利用時間を過ぎていた。びくともしない自動ドアの前で、立ち尽くす。

 カサカサ、カサカサ。

 冬の夜風が耳をなぶる。音は、耳の奥。体の中から聞こえているみたい。

 カサカサ、カサカサ。
 カサカサ、カサカサ。

 通りすがりの男に突き飛ばされた。よろけて、歩道の花壇にぶつかった。脛に鈍い痛みが走る。
 歩道の隅で確かめたら、脛がぱっくり割れていた。でもそこから溢れているのは、血ではない。

 カサカサ。

 傷からは、細かなおが屑が溢れていた。振り返ると、歩道におが屑の筋が出来ている。

 カサカサ。カサカサ。



 誰かに見られた気がして、脛を片手で押さえて隠す。
 片手で押さえたままでは上手く歩けない。かといって、街におが屑をばらまきながら歩くわけにもいかない。
 仕方なく、わたしはその場に座り込んだ。
 いつの間にかわたしの中身は、おが屑なのだ。
 誰かが拾って、服を脱がしてくれさえすれば、わたしはおが屑になって散り散りに消えてしまえるのに。
 脛を抑えて道行く人間を見上げる。
 でも、おが屑の固まりを拾ってくれる人なんてそうそういない。

 カサカサ、カサカサ。カサカサ、カサカサ。
 カサカサ、カサカサ。カサカサ、カサカサ。




「ねえ、コーヒーでいい?」
 目を開けると彼の顔が覗き込んでいた。甘い匂い。フレンチトースト。
「カサカサ」
 と、わたしは言った。彼は、片手にフライ返しを持ったまま首を傾げる。
「何それ。寝ぼけてる? 焼けるまでまだかかるから、もう少し寝てなよ」
 頷いて、布団にもぐり込む。
 トーストの焼ける音、遠くなる。
 
 カサカサ、カサカサ。

(2000.11)

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