読書の記録

No.355 2010.2.27

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エリザベス・コステロ / J・M・クッツェー

(早川書房 /2005年発行)

 ノーベル賞受賞後、第一作目の作品。

 エリザベス・コステロという老齢の大御所の女性作家が主人公。架空の人物なんだけども、小説の世界であることを忘れるくらい、生々しく、いい意味で荒々しい人物だった。まるでノンフィクションか、ルポタージュか、日記か、講演のようで、小説としては不完全な未加工なごつごつした印象を受ける(もともとは講義に使った文章だという。講義に小説を使うことも面白いし、小説が講義のように荒々しく開かれているのも面白い)。でもこれがクッツェーの狙いなのだろう。エリザベスという作家が、読者に向かって予定調和ではない、生の声を、わあわあ叫んでる、そんな印象の本だった。

 その声の中には、クッツェーの魂が入っている。もし、クッツェーが評論か自分の考えをつづるエッセイの形で同じ事を伝えようとしても、ここまで響かなかったし、揺さぶられなかったと思う。エリザベスは人間や作家としての欠点も遠慮なくさらすし、魅力もある。小説の形もいい意味で隙がある。だから、わたしはそれは違うよとか、ああ、分かる、とか、そんなこと考えたことなかったとか、いちいち同じ目線で反応してしまうことができた。もし、エッセーなら、丸呑みにして、自分の考えなんて引き出されなかったと思う。

 物語の中で、エリザベスは、不条理に残酷に処刑される人間を事細かに真に迫って描写したウエストという作家を非難する。その残酷なシーンは実際にヒトラーの時代に行われたことが元になっている。作家とは、そういう事実に目を逸らさず伝えるべきなのだ、と考えていたわたしは、エリザベスの人間らしい考え方に圧倒される。

(引用)『読みながら情景描写に胸がわるくなり、自分自身にむかつき、こんなことが行われている世界にむかついて、ついには本を押しやると、頭を抱え込んだ。“いやらしい!” そう叫びたかったが、誰にこのことばをぶつけるべきかわからないのでやめた。自分自身にか、ウエストにか、こんなことが起きるのを一部始終平然と眺めていた天使の監視団にか。こんなことはあってはならないから、 “いやらしい”のだが、起きてしまったなら、人の正気を保つには、世界中のその手の場所でそうしているように、事を白日にさらすことなく、しっかりくるんで、こんりんざい地の奥に隠しておくべきだから、二重に“いやらしい”のである。』

 そして、さらにこういう忌まわしい話を書くことで、作家は無傷ではいられないと主張する。

(引用)『具体的に言うと、何かを読むことで人がつねに向上するとは思えなくなってきたのだ。さらに言えば、魂のより暗き領域に乗りこんでいく作家たちが、かならずしも無傷で還れるとはかぎらない気もする。自分の欲することを書くというのは、欲するものを読むのと同様、それじたい善いことなのかどうか。そういう疑問も感じはじめていた。』

 講演会でウエストの話を取り上げようと決めたのに、当の本人が出席していることを知って、エリザベスは苦悩するが、結局なるべくオブラートにくるんだまま、言うべきことを本人に言う。

『「わたしが主張したいのは、あなたがあの本で描いたような恐怖に対して、われわれは慎重になる必要がある、ということです。われわれ作家は。読者のためのみならず、わたしたち自身のために。書いたものが書き手を危険にさらすこともある、わたしはあると思うんです。もし書いたものに書き手を向上させる力があるなら、きっと堕落させる力もあるはずでしょう。同意いただけるかわかりませんが」』

 今のわたしはエリザベスと同じ気持になれないけれど、でも、もしこのまま何十年も小説家としてやっていくことができて、一つの大家となれて、そして年を取って人間の醜いところをたくさん見てきたとしたら、同じようなことを思うのではないか。そして思ったとしても、エリザベスのように堂々とその考えを表明できないのではないか。単に怖気ついて使命から逃げているだけと思われるのが嫌で。

 消化し切れてないけれど、たくさんの塊を投げつけられた一冊でした。また数年経ったら読もうと思った。

訳:鴻巣友季子

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