読書の記録

No.173 2006.7.29

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六〇〇〇度の愛 /鹿島田真希

(新潮社 /2005年発行)


 文藝賞でデビュー。この作品で三島由紀夫賞受賞。で、こないだ芥川賞候補にもなってたよね。というわけで読んでみました。

 すんごいタイトルですけど。タイトルの六〇〇〇度ってのは長崎の原爆の温度、なんですよー。なーんだってな具合で、このタイトルが示すのと同様、中身もやたらと大袈裟です。日常に大きな不満もないがふとした違和感と疑問を感じて何となく長崎へ一人旅に来た主婦が、長崎の原爆資料館とか見学して、青年と恋に落ちて、恋を長崎の原爆にたとえたりして、そして家に帰ってきて空気のような夫からもおとがめなく元のさやに収まる、という話です。これがまあ大袈裟に書かれています。
 うーん。
 うーん。
 と、まあこんなふうにばっさり切り捨ててしまうのも申し訳ないので。もう少し語りますと、会話も地の文も、「大袈裟である」ということではすごく一貫してて、大袈裟というのが売りの小説。その大袈裟に(しつこいか)振り回されて、ああ文学したなあーという気分になる読者がいることだろう。でもな、わたしは、これは文学じゃないと思いました。なぜかって? 囁くのよ、わたしのゴーストが(もういいって)。

 どうして文学じゃないか、ちゃんと分析して説明できたら評論家になれるんだろうけどね。でも、評論家は、逆にどんなものでも「文学」に仕立て上げてしまうことが可能だと思う。だから、まず、魂の部分で感じることが必要だと思う。冗談じゃなくて、本当にゴーストが囁くかどうか、本物なのかニセモノなのかを判断しなきゃ駄目だよ。ここで言う本物というのは、命が吹き込まれた物語で、ニセモノというのは形や動きは生命そっくりだけどでも命は入っていないもののことを指します。どれだけ見た目がそっくりで、危害を加えられたら痛い表情をするとか血に似た液体を流すとか、そういう精巧なプログラムやボディを作ることはできても、生命じゃないものは、やっぱ生き物とは違うし、本当に感動を与えることはできないよ。という話。

 この話で一番気に食わなかったのは、物語が主人公に対して非侵襲的であったことかな。主人公が最初と最後で何も変わっていない小説なんて、ただの陶酔譚だ。

 まあでもまあ、大袈裟っぷりが徹底してて、その迫力は評価できるし、文章も悪くないので★4つで。もっと考え抜いて書かなきゃ駄目な話なんじゃないかと思う。会話で逃げないでさ。




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