伊豆の踊り子・温泉宿 他四篇 /川端康成
(岩波文庫 /1952年発行)
十六才のとき死に行く祖父を介護の傍ら冷静に眺めて書き綴った「十六歳の日記」や、旅の途中でたまたま一緒になった踊り子の一行とのほのかなやりとりを書いた「伊豆の踊り子」、野性的で活力に溢れる温泉宿の女中たちを描いた「温泉宿」、一度死んで蘇ったという男のかすかな狂気を感じさせる幻想的な遺書「青い海黒い海」など。
川端康成の文章は、余韻が美しい。「○○が〜した。」という国語的文章の規則に縛られない自由な文章は、それ自体が芸術で、少しずつ味わうように文字を追って読んだ。文自体が芸術といってもそのせいで中身が気障だとか読みにくいということにはなっていない。いかに読みやすくイメージを伝えるかということを追求した文だと思った。そこがすごい。
たぶん「伊豆の踊り子」は昔読んだことがあるかもしれない。でもすっかり忘れている。名作というのは、自分の状態によって感じることが違うと思う。高校生のとき読んだものでも、今読んで新たにはっとさせられることが多い。
伊豆の踊り子の主人公は、休暇中にちょっとした一人旅をしている学生である。彼は自分の行く道中に踊り子の一行を見つけ、その中の若い踊り子に純粋な興味を惹かれ、彼らと一緒にひととき同行することになる。踊り子たちの人生は、学生である自分と掛け離れていて決してこれから先一緒になることはない。ただひととき交わっただけ。親しくなってみると、踊り子は子供というほどに幼く、恋にはならず、主人公を微笑ませる。彼ら一行につきそっている男は、踊り子の姉芸者に恋してこの道に入ってしまったという。自分の世界に戻るために船に乗って踊り子たちと別れる主人公。そして踊り子たちと人生をともにする男。その対照が最後のシーンで際立つようになる。
主人公は船の中で静かな涙を流す。それは自然に溢れてくるような涙。このシーンがとてもよく分かった。説明できるような類いじゃなくて、そのまま主人公の気持になってそっと涙を一緒に流すような思いがした。
「温泉宿」の冒頭は、女中たちが裸になって湯桶を洗っている野性的なシーンから入る。ちょっとびっくりした。そして彼女たちから目が離せなくなってしまって一気に読んだ。
※抜粋※(「温泉宿」冒頭より)
彼女らは獣のように、白い裸ではい回っていた。
脂肪のまるみで鈍い裸たち――ほの暗い湯げの底にひざがしらではう胴は、ぬるぬる粘っこい獣の姿だった。肩の肉だけが、野ら仕事のようにたくましく動いている。そして、黒髪の色の人間らしさが――全く高貴な悲しみの滴りのように、なんとういうあざやかな人間らしさだ。
お滝は束子を投げ出すと、木馬を飛ぶように高い窓をさっとおどり越え、いきなり溝にまたがってしゃがみ、流れに音を落としながら、
「秋だね。」
「ほんとうに秋風だわ・秋口の避暑地の寂しさったら舟の出てしまった港のように――。」と、湯殿からお雪がなまめかしく、これも恋人づれの都会の女の口まねだった。
「生意気だよ、ちび。」と、その腰をお芳が束子で打って、
「東京者は八月の初めから、秋だ、秋だ、と言っているのさ。山の中には年じゅう秋風が吹いていると思ってやがる。」
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