ヴェニスに死す /トオマス・マン
(岩波文庫 /1939年発行)
トオマス・マンをいつか読まねばと思っていて、一番短そうでよく聞いたことのあるタイトルだったので読んでみた。
旅先のヴェニスで、初老作家アッシェンバッハは一人の美しい少年に心を奪われる。この作家と少年との間に交流はほとんどない。アッシェンバッハは一方的に賞賛と憧れと恋にも似た思いを募らせ少年を観察する。美しい町ヴェニスは謎の疫病に侵されていく。ヴェニスの住人はそれをひた隠しにするが、情報の早い旅行者は次々とヴェニスを離れていく。だが、作家は事実を知っても、少年の魅力から離れることができずヴェニスに残り続け、やがて死ぬ。
音のない美しい世界観が、迫力を持って全体を支配している。葛藤や苦しみを描いた小説とは違って、精巧に作られた芸術作品のような美しさと悲しさがある作品。文章も一種独特で、硬質で哲学的。芸術とは何かということが、生の言葉で語られている。
(抜粋)
芸術は一段とふかい幸福を与え、一段と早く衰えさせる。それに奉仕するものの顔に、想像的な精神的な冒険の痕跡をきざみつける。そして芸術は、外的生活が僧院のようにしずかであってさえも、長いあいだには、放埓な情熱と享楽とにみちた生活によっても、滅多に生み出され得ぬような、神経のぜいたくと過度の洗練と倦怠と、そして好奇心とを生み出すのである。
作家の幸福は、感情になりきり得る思想であり、思想になりきり得る感情である。そういう脈打つような思想、そういう精密な感情が、当時この孤独な男に所属し服従していた。すなわち、自然は精神がうやうやしく美のまえに頭をさげるとき、うっとりとしておののく、という思想、感情なのである。
世間が美しい作品を知っているだけで、その根源を、発生条件を知らぬのは、たしかにいいことだ。なぜなら、芸術家にわいてくる霊感の源を知ったら、世間はしばしばまごつかされ、おびやかされるであろうし、従って優秀なもののもつ効果が消されてしまうであろう。奇妙ないくとき! 奇妙に精根を疲らせる辛労! 精神と肉体のふしぎに生産的なまじわり!
あらすじだけ書くと、美少年の尻を追っかけるあやしい老人の物語なんだけども。彼の滑稽な行動は、彼の芸術に対する真摯な感情で昇華されて、美しい作品に仕上がっている。最後のシーンは、作家アッシェンバッハがまさに芸術に奉仕し殉教したシーンであろう。
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